茶園の子供達
飢えを食らう子どもたち
「ESA アジア教育支援の会」とのお付き合いのきっかけにもなったフリーライター今西乃子氏のリポート「飢えを食らう子どもたち」の転記を「ESA」のご好意で許可していただくことが出来ました。
紅茶が好きなたくさんの人に読んでいただきたいと思います。一杯の紅茶から、更なる世界が広がりますように・・・。
著者・今西乃子氏プロフィール
フリーライター。ESA理事。
大阪府岸和田市生まれ。1999年8月、旅行記、子どもの道徳・倫理問題の執筆をきっかけにフリーライターとなる。
カルカッタで生きるストリートチルドレンとの出会いにより、ライフワークとして世界の子どもたちの取材を開始。


著書に国際養子縁組を取り上げた「国境を越えた子どもたち」(あかね書房・第48回産経児童出版文化省受賞)があります。
国際理解を基本としたさまざまな国とテーマを題材にした講演を行ったり、小学校などでの講師も務めていらっしゃいます。
「Cha Tea」でも2003年1月に講演をしていただきました。
飢えを食らう子どもたち〜前編〜 ESA会誌「JOY40号」より転記
物乞いからのメッセージ、それは「もし私がこの国に生まれていたら?」ということ
雨季には国土の3分の1が冠水、首都は大気汚染が世界最悪と言われ、街の汚さはカルカッタ(現コルカタ)以上。それがバングラデシュだ。観光産業はなく、首都ダッカでさえ外国人が歩いている姿はほとんど見かけない。 少し歩けば、物乞いの子どもたちが手を出し、金をくれ、物をくれとまとわりついてくる。特に北東部の町シレットから首都ダッカへ向かう電車の中での体験は、今でも私の脳裏に張りつき、五感共々忘れることはできない。 シレットからダッカまでは、予定では電車で6時間。しかしいつものごとく列車は遅れ、私はエアコンのない車内の硬い椅子に8時間もしばりつけられていた。その間ずっと、子どもや体に障害のある人たちが、私たちのところにやってきては何かをくれとせがむ。
「ナー(ベンガル語でNoの意)」と言っても、簡単に引き下がってはくれない。さまざまな物乞いたちが入れ替わり立ち代り何度も私の膝を叩き、こすり、洋服を引っ張りながら懇願する。それが延々8時間続いたのだ。

能力ややる気では抗えない。「生まれ持った運」について考えさせられた
バングラデシュには、手や足のない物乞いたちが不自然なほど大勢いる。もちろん、中には生まれながらの障害児もいるのだが、マフィアによって手足を切られてしまう子どもも多いと聞く。物乞いの子どもを統括するシンジケートがあって、哀れみを誘って「収入」を上げさせるためにするのだそうだ。
そんな子どもたちを見て、かわいそうだとか、汚いとかという思いは私の中には湧いてこなかった。もし私もこの国に生まれていれば、このような立場になっていたかもしれない。単純に「運」の問題だ、という思いだけだった。たまたま私が日本に生まれて食べるのに困っていないのと同じように、彼らは運悪く貧しい国に生まれ、物乞いをせざるを得ない。

だから、かわいそうなどという同情心や、汚れていて汚いなどと嫌うのは、どちらも間違っている。 人間には、自分で努力してできることと、その状況に生まれたがために自分ではどうすることもできないことの両方がある。本人がどんなに意識が高くても、努力をしても、生まれ持った圧倒的な運に抗えないということもこの世にはあるのだ、ということを私はあらためて見せつけられたのだ。

将来を考えることさえ思いつかない、凄まじい貧困に食われる子どもたちの夢
インド国境に近いシレットという町は、思い描いていたバングラデシュのイメージとは、まるで正反対だった。
延々と続く段々畑にも似た茶畑は、息を呑むような美しさだ。茶摘をする女性たちは、茶畑の美しさを背景に、まるで昔の歌に出てくる光景のように優雅に見えた。
私は、シレットに一目惚れした。しかし、絵画のように美しい茶摘をする人々の生活は、そのイメージをあざ笑うかのように惨めなものだった。 シレットから車で30分ほど離れた茶園のひとつ、カラグル・ティー・エステートで働く人々が住む村を訪れた。これはいったいいつの時代なのか。共同トイレもなければ、水道も電気もない。今でもこんな生活をしている人がいるのか、と私は目を疑った。
それでも子どもたちは、初めて見る日本人に大はしゃぎ。私は、ここへ案内してくれた現地オブレート修道会のスバシュ神父と一緒に、子どもたちの大歓迎を受けることになった。

子どもたちに将来の夢を聞いてみたところ、返ってきたのはちょっと違和感がある反応
オブレート修道会は、この貧しい村の子どもたちに教育を施すことを目的に、2年ほど前から教師を派遣し、学校を運営してきている。しかし資金不足のため、教室も机もない場所で、1人の先生が年齢差のある子どもたち43人を教えているのが現状だ。 それでも、学ぶことの楽しさを知った子どもたちは元気いっぱいだった。私は、その元気な顔を見ながら、まるで日本の子どもたちに話しかけるようにある質問をした。「さあて! みんなは一生懸命勉強して、大きくなったら何になりたいのかな?」 きっと、いろいろな返事が返ってくるに違いない。そう思っていた。ところが、その問いに対して43人の子どもたちはついに誰も何も答えなかった。きっと、初めての日本人を見てみんな恥ずかしがっているのだろう。
「誰か、何かないの? なんでもいいんだよ。教えて!」
その言葉にひとりの少年がスクッと立ち上がって言った。
「ドクター……僕は、お医者さんになりたい!」
そう少年が言ったとたん、周りがくすくすと笑い出した。
いったい何がおかしいのか? その笑い声は私には意味不明だった。日本で巻き起こる、ありふれた笑いではなかった。ただの笑いなのに、私は戸惑った。

貧困の中に住む11歳のジュトン。彼の目に映る未来の姿とは……?
子どもたちの歓迎が終ったあと、私はスバシュ神父に聞いた。「あの笑いはなんだったんですか……? 少年が医者になりたいといったことをみなバカにしているのでしょうか?」。 「いいえ、違いますよ。ここにいる子どもたちも、大人たちも、この村から出たことはありません。学校も私たちが来るまではなかったのです。来る日も来る日もお茶を摘んで、それで人生が終るのです」
「ええ、わかっています。でもそれが、どう関係あるのですか?」
「いいですか? 教育を受けたことのない子どもたちの多くは、将来の夢について考える、ということが考えられないのです。自分たちが決して思いつかないことを、あの子が言ったからみんなが笑ったのです」 スバシュ神父はしばらくの沈黙の後、視線を私から少年の方へ向けると手招きしながら叫んだ。「ジュトン、こっちへおいで、聖書を持ってね」。その11歳の少年はジュトンといった。
ジュトンは黙ってスバシュ神父の横に立つと、ベンガル語で書かれた聖書を広げた。聖書は大人が読むぶ厚いものだった。「ジュトン、さあ、声に出して読んでごらん」。
ジュトンは、詰まることなく聖書をすらすらと読み上げた。私は驚いた。教育を受けたことのなかった少年が、オブレート修道会が運営する、学校というには名ばかりのこの場所で、2年に及ばないわずかな期間に学んだものは、私の想像をはるかに越えるものだった。 さらに驚いたことは、夢を持つことさえ考えられない子どもたちばかりの中で、彼が医者になりたいとはっきりと言ったことだった。
「どうして、お医者さんになりたいの?」
私の問いに答えたジュトンの話は、奴隷制度にも似た茶園の生活事情をあきらかにするものだったのだ。
飢えを食らう子どもたち〜後編〜 ESA会誌「JOY41号」より転記
1日の賃金が56円!茶園は、まるで現代の奴隷制度
ジュトンには、両親と兄、姉が一人ずついる。
両親は茶園で働いていたが、ある日父は高熱とひどい腹痛のため、仕事に出られなくなってしまった。村に医者はおらず、薬も茶園のオーナーから与えられるわずかなものしかなかった。
1ヶ月後、父はなんとか回復したが、仕事は解雇され、今は母ひとりが家族5人の生活を支えている。ジュトンの父は薄気味悪いほどやせていて、髪にはツヤがない。
村はまるごと茶園オーナーの持ち物だ。事実上、村に住む茶園労働者ごとオーナーのもの、という状態である。
村人は、家賃などは払わなくていいが、茶園での労働条件は想像を絶するほど悪い。朝から晩まで働いて約20キロの茶葉を摘み、1日わずか27タカ(約56円)である。街で買う1.5リットル入りのミネラルウォーターが20タカだから、現地の物価に比べてもいかに低いかがわかるだろう。これではただ働き同然で、奴隷制度とさして変わりはない。
彼ら茶園で働く人々の生活は、まさに“ハンド・トゥー・マウス(手から口)”、今日食べることで精いっぱいなのだという。

「ベター・ザン・ナッシング。積み上げていくことが大切なのですよ」
当然、茶園のオーナーは、オブレート修道会が村に学校を建てることをこころよくは思っていない。子どもたちが教育を受ければ、村から出て自立できるようになってしまうからである。せっかくの安い奴隷に知恵などつけてもらいたくないのだ。
もちろんオブレート修道会の狙いはその逆にある。しかし、この村で修道会によって行なわれている教育は、レベル5(日本の小学校に相当)までだ。ジュトンの医者になる夢には、あまりにも遠い。
そんな私の疑問に、スバシュ神父はこう答えた。「私たちは、いつもこう考えているのです。ベター・ザン・ナッシング(何もしないよりいい)と……。ひとつひとつ積み重ねていくことが大切なのですよ。」

写真を撮りたいという私のために、父親がパンを「借りて」きてくれた
笑顔こそ失っていないが、ジュトンたちの生活は悲惨だった。私が訪れた日、学校にいた子どもたちは、朝から午後2時まで何も食べていなかった。
ジュトンも例外ではない。昼すぎ、私はジュトンの家に行き、食事の様子を写真に撮らせてほしいと頼んだ。すると、まだ準備ができていないので、あと1時間はかかるという。ジュトンは朝から午後3時ぐらいまで何も食べていないということになる。
しばらくすると、父親がどこからか干からびたパンケーキのようなものを皿に乗せて持って来た。どうしたのかと聞くと、「あなたが写真を撮りたいというから近所の人から借りてきたのです。」とニコリと笑って答えてくれた。これを自分たちが食べ、後で食事を作ったときに返すという。
彼らがふだん食べるのは、小麦粉を水で練って焼いたパンのようなものだけだ。貧しさも限界である。しかし、熱心なカトリック教徒の父親は、家族を座らせてお祈りを捧げ、大事に大事に小麦粉のパンを食べた。

教育の支援こそ、真の支援
こんな状態で、一体どうやったらジュトンが医者になれるというのだろう。あれだけの聖書をわずかな学習時間ですらすらと読みこなせるようになったジュトン。父親の病気が原因で、医者になりたいと言ったジュトン。今のままでは彼も一日27タカで死ぬまで働くのだ。
私が列車の中で会った物乞いたちと同じように、ここにもまた、自力では解決できない生まれ持った過酷な運命が存在していた。

それにくらべて、私たち日本人はどうだろう?
いくら、失業率が上がり、景気が悪いといっても食べる事に困っている人はほとんどいない。
もし私たち一人ひとりが、一日に吸うたばこ代や、喫茶店で飲むコーヒーを一杯減らせば、ジュトンのような子どもたちが大勢学校に通うことができる。
ジュトンが一生懸命勉強をして、万が一本当に医者になったらどれだけの貧しい人間が救われるだろう。今日、100人分の小麦粉を配布するより、近い将来、もっと多くの人がジュトンの手によって肉体的にも精神的にも救われるはずだ。

痛みを味わった人間こそが他人の痛みをわかるように、ジュトンは懸命に貧しい人のために尽くすに違いない。もちろん、彼が医者になるとは限らないが、どのみち投資に絶対的な保証はないのである。結果ではない。
大切なのは、あの貧困の中でジュトンが未来への夢を抱いていたということだった。あの子にチャンスをあげたい。あの子の夢を応援してあげたい。それには、オブレート修道会の神父たちが、繰り返し何度も言うように、「教育がすべて」なのだ。
本当の意味での支援とは、金銭や食料を調達することだけでない。

子どもたちに教育を施し、彼らが自立できる国をつくることこそ真の貧困撲滅であり、今日の米100キロより、教育がより多くの人々の胃袋と、心を満たしてくれることは間違いない。 そして、これらを支援することをボランティア(奉仕)と考えるのではなく、子どもたちの未来への投資と考えてみることを是非提案したい。

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