物乞いからのメッセージ、それは「もし私がこの国に生まれていたら?」ということ
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雨季には国土の3分の1が冠水、首都は大気汚染が世界最悪と言われ、街の汚さはカルカッタ(現コルカタ)以上。それがバングラデシュだ。観光産業はなく、首都ダッカでさえ外国人が歩いている姿はほとんど見かけない。
少し歩けば、物乞いの子どもたちが手を出し、金をくれ、物をくれとまとわりついてくる。特に北東部の町シレットから首都ダッカへ向かう電車の中での体験は、今でも私の脳裏に張りつき、五感共々忘れることはできない。
シレットからダッカまでは、予定では電車で6時間。しかしいつものごとく列車は遅れ、私はエアコンのない車内の硬い椅子に8時間もしばりつけられていた。その間ずっと、子どもや体に障害のある人たちが、私たちのところにやってきては何かをくれとせがむ。
「ナー(ベンガル語でNoの意)」と言っても、簡単に引き下がってはくれない。さまざまな物乞いたちが入れ替わり立ち代り何度も私の膝を叩き、こすり、洋服を引っ張りながら懇願する。それが延々8時間続いたのだ。
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能力ややる気では抗えない。「生まれ持った運」について考えさせられた
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バングラデシュには、手や足のない物乞いたちが不自然なほど大勢いる。もちろん、中には生まれながらの障害児もいるのだが、マフィアによって手足を切られてしまう子どもも多いと聞く。物乞いの子どもを統括するシンジケートがあって、哀れみを誘って「収入」を上げさせるためにするのだそうだ。
そんな子どもたちを見て、かわいそうだとか、汚いとかという思いは私の中には湧いてこなかった。もし私もこの国に生まれていれば、このような立場になっていたかもしれない。単純に「運」の問題だ、という思いだけだった。たまたま私が日本に生まれて食べるのに困っていないのと同じように、彼らは運悪く貧しい国に生まれ、物乞いをせざるを得ない。
だから、かわいそうなどという同情心や、汚れていて汚いなどと嫌うのは、どちらも間違っている。
人間には、自分で努力してできることと、その状況に生まれたがために自分ではどうすることもできないことの両方がある。本人がどんなに意識が高くても、努力をしても、生まれ持った圧倒的な運に抗えないということもこの世にはあるのだ、ということを私はあらためて見せつけられたのだ。
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将来を考えることさえ思いつかない、凄まじい貧困に食われる子どもたちの夢
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インド国境に近いシレットという町は、思い描いていたバングラデシュのイメージとは、まるで正反対だった。
延々と続く段々畑にも似た茶畑は、息を呑むような美しさだ。茶摘をする女性たちは、茶畑の美しさを背景に、まるで昔の歌に出てくる光景のように優雅に見えた。
私は、シレットに一目惚れした。しかし、絵画のように美しい茶摘をする人々の生活は、そのイメージをあざ笑うかのように惨めなものだった。
シレットから車で30分ほど離れた茶園のひとつ、カラグル・ティー・エステートで働く人々が住む村を訪れた。これはいったいいつの時代なのか。共同トイレもなければ、水道も電気もない。今でもこんな生活をしている人がいるのか、と私は目を疑った。
それでも子どもたちは、初めて見る日本人に大はしゃぎ。私は、ここへ案内してくれた現地オブレート修道会のスバシュ神父と一緒に、子どもたちの大歓迎を受けることになった。
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子どもたちに将来の夢を聞いてみたところ、返ってきたのはちょっと違和感がある反応
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オブレート修道会は、この貧しい村の子どもたちに教育を施すことを目的に、2年ほど前から教師を派遣し、学校を運営してきている。しかし資金不足のため、教室も机もない場所で、1人の先生が年齢差のある子どもたち43人を教えているのが現状だ。
それでも、学ぶことの楽しさを知った子どもたちは元気いっぱいだった。私は、その元気な顔を見ながら、まるで日本の子どもたちに話しかけるようにある質問をした。「さあて!
みんなは一生懸命勉強して、大きくなったら何になりたいのかな?」
きっと、いろいろな返事が返ってくるに違いない。そう思っていた。ところが、その問いに対して43人の子どもたちはついに誰も何も答えなかった。きっと、初めての日本人を見てみんな恥ずかしがっているのだろう。
「誰か、何かないの? なんでもいいんだよ。教えて!」
その言葉にひとりの少年がスクッと立ち上がって言った。
「ドクター……僕は、お医者さんになりたい!」
そう少年が言ったとたん、周りがくすくすと笑い出した。
いったい何がおかしいのか? その笑い声は私には意味不明だった。日本で巻き起こる、ありふれた笑いではなかった。ただの笑いなのに、私は戸惑った。
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貧困の中に住む11歳のジュトン。彼の目に映る未来の姿とは……?
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子どもたちの歓迎が終ったあと、私はスバシュ神父に聞いた。「あの笑いはなんだったんですか……? 少年が医者になりたいといったことをみなバカにしているのでしょうか?」。
「いいえ、違いますよ。ここにいる子どもたちも、大人たちも、この村から出たことはありません。学校も私たちが来るまではなかったのです。来る日も来る日もお茶を摘んで、それで人生が終るのです」
「ええ、わかっています。でもそれが、どう関係あるのですか?」
「いいですか? 教育を受けたことのない子どもたちの多くは、将来の夢について考える、ということが考えられないのです。自分たちが決して思いつかないことを、あの子が言ったからみんなが笑ったのです」
スバシュ神父はしばらくの沈黙の後、視線を私から少年の方へ向けると手招きしながら叫んだ。「ジュトン、こっちへおいで、聖書を持ってね」。その11歳の少年はジュトンといった。
ジュトンは黙ってスバシュ神父の横に立つと、ベンガル語で書かれた聖書を広げた。聖書は大人が読むぶ厚いものだった。「ジュトン、さあ、声に出して読んでごらん」。
ジュトンは、詰まることなく聖書をすらすらと読み上げた。私は驚いた。教育を受けたことのなかった少年が、オブレート修道会が運営する、学校というには名ばかりのこの場所で、2年に及ばないわずかな期間に学んだものは、私の想像をはるかに越えるものだった。
さらに驚いたことは、夢を持つことさえ考えられない子どもたちばかりの中で、彼が医者になりたいとはっきりと言ったことだった。
「どうして、お医者さんになりたいの?」
私の問いに答えたジュトンの話は、奴隷制度にも似た茶園の生活事情をあきらかにするものだったのだ。
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